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予定は未定。

高専卒業と5年間の総括

『2022年3月18日、つまり今日僕は高専の5年間の課程を修了し、卒業を迎えた。』

 

といっても、これを書いている今現在の僕はまだ在学中だけど。

僕は今、卒業式の前日の深夜にこの記事を書いている。

本当は夜更かしをせずに明日の式に備えるべきなのだと思う。

それでも僕は、この記事を卒業する前に完成させなくてはならないと強く思っている。

だから、朝までに間に合うか不安に感じつつも、とりあえず執筆を始めた。

 

この記事には、僕が高専で過ごした5年間の振り返りとその総括について書くつもりだ。

内容はあくまで個人的なものだから、もしかしたらほとんどの人にとって退屈に感じられるものになるかもしれない。

おまけに推敲をする時間もないから、多分とても読みにくい文章になると思う。

それでもこれを読んだ誰かが僕のことを少しでも知ってくれたら僕はうれしく思う。

 

 

追記:

冗長な文を書き連ねたせいで、気が付けばこの記事の文字数が僕の提出した卒論の文字数を優に超えてしまった。

僕としては重要な部分をコンパクトに纏めたつもりだったけど、もし君が無駄に感じた部分があったなら、読み飛ばしてもらって構わない。

だだ、たとえどんなに薄っぺらな人生だとしても、そのすべてを知るには僕が経験したのと同じだけの歳月がかかるし、ここでは最大限要約したつもりだから今回ばかりは大目に見てほしい。

 

 

 

 

0.はじめに

本題に入る前に、まず僕の現在の状況を報告しようと思う。

簡単に言うと、これを書いている今の僕は、卒業式を翌日に控え(といっても残り12時間しかないが)、朝が来るのを待っている状態だ。

つまり、高専生でいられる期間もあと僅かしか残されていない。

2022年の3月18日、つまり今日高専を卒業したら僕はもう高専生を名乗ることができなくなる。

そして恐らく、これが雑魚高専生名義の最後のブログ更新になる。

この最後の更新には、僕の中で高専生活に区切りをつけて、前に進むための意味合いも含んでいる。

 

高専で過ごした5年間は、僕にとって酷く退屈に感じられた時間だったけれど、それなりに多くを学んだ時間でもあった。

だから、そのすべてが無駄だったとは全く思わない。

 

僕は、出来事は振り返って初めてその意味を理解できるのだと思っている。

だから今、僕がこの文章を書く目的は、現時点の僕の状態を主観的に書き残しておくことだ。

そして、いつかまたこの文章を読み返したときに、そこから過去の自分を俯瞰することができたら、僕はうれしく思う。

 

それでは前置きもこのくらいにして、そろそろ僕が高専で過ごした5年間について語ろうと思う。

 

1.高専に入学するまで

この記事を読んでいるあなたは高専についてどのくらい知っているだろうか。

おそらく、高専関係者以外にはその存在すら殆ど知られていないと思う。

現に僕も中学まではそうであったから、念のため軽く説明しておく。

高専は中学卒業後に入学できる5年制の高等教育機関で、主に工学について学ぶことができる。

卒業後は、クラスのおよそ半分が就職し、残りが進学する。因みに僕は進学を選んだ。

文部科学省によると、全国で毎年1万人くらいが高専に入学するらしい。

1つの世代の人数がおよそ100万人だから、高専生は全体の1%くらいのレアな存在でもある。

では、なぜ僕が高専に入学することになったのだろうか。

それを知るためには、まず僕の家庭環境について知る必要がある。

そのため、まずは僕の幼少期から高専に入るまでを振り返っていこうと思う。

 

1.1.幼少期

2002年の2月、僕は愛知の田舎で、農家の長男として生まれた。

農家と言ってもそんなお金持ちの農家ではなくて、祖父の代から引き継いだ家業を細々と続けているだけの貧乏農家だった。

父親は名前も聞いたことのないような私立大学出身で、大学卒業後すぐに家業を継いだらしい。

かなり頑固で、怒ると暴力的になるけど、それでも家族思いのいい父親だったと思う。

母親も同様に無名私立大学出身で、とてもフワフワしている人だった。

怒るとヒステリックになって叫ぶけど、普段は優しい母親だった。

幼少期の僕から見れば、貧しいながらも温かい家庭だったと思う。

 

ただ、あまりにも家にお金がなかったから、ゲームとかを買ってもらった記憶はないし、何なら小学5年生まで家にテレビすらなかった。

だから、僕は子供のころはいつも学校の図書館で時間をつぶしていた。

小学生の頃にはいろいろな本を読んだと思うけど、特に気に入ったのが星新一ショートショートだった。

星新一は本当に好きだったから、小学生のうちに星新一の本はすべて読んだと思う。

本を読むことは僕の唯一の娯楽だった。

 

家庭に話を戻そう。

僕の家にはテレビもなかったから寝るのもすごい早くて、小学校低学年の頃はいつも8時位に寝ていたと思う。

本当は周りの友達みたいにゲームとかテレビとか、いろいろ欲しいものはあったけど、それは両親にとって無駄なものに感じられたらしく、結局一度も買ってくれなかった。

一度両親に、クリスマスプレゼントで任天堂のDSが欲しいと頼んでみたことがある。

それでも、実際にもらえたのは学習漫画で、とても悲しかった記憶がある。

クリスマスの後に、周りのみんながポケモンとかスマブラとかをやっているのをみて、すごく羨ましいと思っていたことを覚えている。

 

まあそんなふうに僕はゲームをできないまま子供時代を過ごしていた訳だけど、小学校高学年くらいの頃にようやく僕に転機が訪れた。

それは、親が仕事用にPCを購入して、それを多少触らせてくれることになったこと。

初めて触るデジタル製品だったからとても新鮮に感じたし、インターネット上に沢山のゲームがあることを知ったときは本当にワクワクした。

そして、それ以来僕はPCゲームに熱中するようになった。

アメーバピグとか、サドンアタックとか、チョコットランドとか、いろいろなフリーのオンラインゲームをやったと思う。

有料ゲームをやらなかったのは買い方がわからなかったのと、親にゲームにお金を使うことを禁止されていたから。

無料ゲームの中で特にハマったのが脱出ゲームで、一時期は脱出ゲーム王に入り浸って、一日中プレイしていた。

 

この時期は、本気でゲームクリエイターになりたいと思っていた。

PCを触れるようになってからは、子供の頃の僕にとって本当に幸せな日々だった。

 

本やオンラインゲームに熱中して勉強は全然していなかったから、小学校ではまあ中の上くらいの出来だった。

田舎の公立小学校だったから頭のおかしい先生もいたけど、小学校は楽しかったと思う。

 

1.2.中学

中学校は学区内の公立中学校に進学した。

進学といっても、義務教育だから何か受験したわけでもないけど。

中学に入って最初のテストは、頑張って勉強して200人中30位くらいだった。

それ以降は、なろう小説とかにハマってあんまり勉強していなかったから、ほとんど成績が変化しなかった。

 

部活は何となく楽そうだからという理由でソフトテニス部に入った。

実際は走ってばかりで大変だったし、運動神経が悪くて3年間ほぼ最下位の番手だったけど、友達もできてそれなりに楽しかったと思う。

 

中学時代の一番思い出は、親に黙ってこっそり購入したマインクラフトのこと。

マインクラフトは本当に楽しくて、合計で3000時間くらいやったと思う。(受験勉強の合計時間より多い)

海外のshotbowサーバーの Annihilationをやったり、配布ワールドのTUSBをやったり、modで遊んだりしていたら、本当に無限に遊べる気がした。

 

 

こんな風に怠惰に過ごして、僕の中学生活の前半は終了した。

ここまでを見ると、僕は案外充実した子供時代を送っていたように見えるかもしれない。

しかし、それはある見方ではそうだといえるし、他方からではそうでもないともいえる。

実際、中学後半では僕の家庭に色々問題があった。

それは、中学時代における僕の家庭の一番大きな出来事でもある。

 

中学1年の冬に、両親が家業を廃業した。

 

つまり親の仕事がなくなってしまった。

 

母親によると、家業であるはずの農業の稼ぎはほぼゼロで(むしろマイナスだった)、数年前から貯金を切り崩して生活していたらしい。

家にお金がないのは、子供ながら肌感覚で感じていたことだけど、そんなに財布状況が悪化しているとは知らなかったから、中学生の僕も少なからずショックを受けたと思う。

 

幸い、廃業した後すぐに、父親は非正規雇用ながらも新しい職につけたし、母親もパートで働きだしたから、我が家の財布状況は多少はマシになったらしい。

超貧困から貧困くらいにはなったと思う。

 

 

そんなこんなで色々あり、僕は中学三年になった。

中三になると、そろそろ進路について考えなくてはいけない。しかし既に僕の進路の選択肢は高専一本に絞られていた。

こうなってしまったのは、ほぼ親の意向によるものが大きい。

両親は、僕に学費の安い高専に入ってそのまま就職することを望んでいた。

僕もPCが好きだったし、(有料のゲームをほとんどやったことがないくせに)ゲームクリエーターになりたいと思っていたから、両親の意向に反対はなかった。

問題は、僕の学力が高専合格ラインに到達していないということだけだった。

一応、そのとき僕はそれなりに勉強しているつもりだったけど、順位は全然低くて、よく父親に叱られていた。

この当時僕は反抗期で、勉強のことに口出しをされると反抗的な態度をとっていたから、親子喧嘩のたびに平手打ちされていた。

 

そんな毎日の喧嘩の中である時僕は、「僕が勉強できないのは家が貧乏で塾に行っていないからだ」という言い訳をするようになった。

それは遠回しに父親の年収の低さを煽るような言葉だったから、それを言った後はかなり怒られた。

だけど話し合いの末、父親から「塾に行ってもいいから絶対に成績を上げろ」と言われたので、僕はとても驚いた。

 

そんなことがあり、僕は中学3年の夏季講習から地元の塾に通うことになった。

今思えば、これは僕の人生の中でもかなり大きな転機だったように感じる。

この出来事がなければ、僕は高専に合格出来ていなかったと思うし、もしそうなら今頃、地元で公務員にでもなっていたと思う。

 

塾での僕は大変真面目な生徒だったと思う。

周りの子たちはあまり真面目に受けていなかったけど、僕は父親に無理を言って塾に通わせてもらっている分、成績が上がらなかったら不味いと思って必死に勉強した。

そして、塾での勉強の甲斐もあって無事成績も上がり、冬には学年2位になることができた。

模試の結果では、地元の高専はAA判定だったし、県で一番の公立高校もAA判定だったから、どこを受けても合格は余裕だと思っていた。

結局、僕は両親の希望通り、地元の高専を受験して推薦で無事合格した。

推薦で合格するなら、塾に行った意味はないように感じるかもしれない。でも、塾で学んだ勉強の仕方はその後とても役に立ったように思う。

 

こんなわけで、僕の色々あったけど平凡な中学校生活は終わり、春から高専生活が始まった。

 

2.高専

2.1.高専1年

高専1年の最初の頃はとても意識が高かったと思う。

勉強に関しては、留年が怖かったからかなり一生懸命やった。

テストの点はそんなに良くなかったものの、一応大抵の教科でA評価をとれるくらいには出来ていたと思う。

 

うちの高専では、1年生はよほどのことがなければ寮に入ることになっていた。

入寮して3週間で退寮したH君を除けば、ほぼ全ての人が寮に入っていたと思う。

だから、通学できる距離ではあったものの、僕も入寮することになった。

 

高専1年の時の寮はとても楽しかった。

指導寮生の先輩はすごく優しかったし、寮の同部屋の子とはすぐに仲良くなれた。

部屋はとても狭いのに4人部屋で、色々大変なこともあったけど、今となってはいい思い出になっている。

 

高専でやる部活は特に決めてなかった。しかし、弓道部員の指導寮生の熱心な勧誘によって、僕は半ば強制的に弓道部に入部することになった。

1年目は基礎練習ばかりだったし雑用も大変だったけど、部活で過ごした時間はそれなりに楽しかった。

家も近かったから、土日も毎日部活に参加して1年のうちは皆勤賞だったし、モチベーションも高かったと思う。

 

この年の夏、僕は数学にハマっていた。

というのも、部活終わりに高専の図書館で本を物色していたら、偶然にも「誰でもわかる高校数学!」みたいなタイトルの本を見つけたからだ。

気まぐれでこの本を読んでみたら意外とわかりやすくて、数学の問題を解くことが面白く感じた。

そしてこれ以来、僕は数学をすこし予習するようになった。

 

高専にはいろんな人がいて、僕も周りからすごくいい刺激を受けた。

高専に来る人の中の1割くらいは、家庭環境に問題がある人もいて、僕のクラスにも片親の子とか、貧乏な子もいたから、そこは僕にとってだいぶ馴染みやすい環境だった。

 

高専1年目は、こんな感じでいろいろなことあったけどどれも新鮮で楽しい1年間だったと思う。

2.2.高専2年

高専2年目の前半は相変わらず自堕落な高専生活を満喫していた。

それでも一応勉強は頑張っていたし、成績は維持できていたと思う。

 

この年の夏には二つ思い出があって、一つは数検、もう一つは名古屋で行われたイベント。

僕はこの夏に、数検準一級を受験した。

受験するには少し早いような気もするけど、この頃には独学で数Ⅲの内容も分かっていたし、一旦自分の実力を試してみたかったんだと思う。

それなりに対策して挑んだ試験ではあったし、試験の手ごたえはそれなりにあった。でも、結果としては普通に不合格だった。

ここまで独学してきて、自分は少し勉強ができるという慢心があった分とても悔しかった。

それでも、ここで不合格になったことで、自分が凡人だということに気づくことができたから本当に良かったと思う。

 

もう一つの思い出は、中学の友達に誘われて、家から名古屋まで自転車で行ったこと。

名古屋といっても、金城ふ頭のポートメッセなごやだから、かなり海のほう。

目的は東方と艦これのイベントに参加するためで、当時熱狂的な艦これのオタクだった僕は、是非ともイベントに参加したかった。

自転車で遠出したことがなかったから、目的地まで全然いけると思っていたけど、その道のりはかなり大変だった。

実際に行ってみると家から目的地まで往復100kmくらいで、とてもじゃないけど運動不足の人間の移動できる距離を超えていた。

開始30分で正直もう帰りたくなったことを覚えている。

帰り道で脱水症状を起こして、両足を攣ってしまって大変だったけど、海沿いは景色もよくてツーリングはとても気持ち良かった。

朝4時から自転車を漕いで、夜が明ける前に名古屋へ向かったことは、僕の中で数少ない高校生らしいキラキラした思い出だと思う。

 

こんな風に、僕の高専2年の前半は穏やかに過ぎていった。

ここまでの僕の高専生活は、平凡だとしても充実したものだったといえる。

しかし、高専2年の後半は僕にとって人生の大きな転換点だった。

 

高専2年目の後半は、僕のこれまでの人生の中でもかなり辛い期間だった。

簡潔にまとめると、人間関係とか、自分の実力不足とか、そういったものが全部嫌になって、いろいろなものから離れた時期だということ。

別にいきなり人間関係が悪くなったわけでもないし、いきなり弓道が下手になったわけでもない。

そういうのは、自分の普段の行動によって、じわじわと徐々に形成されていくものだから。

 

とりあえず事実だけをまとめると、僕はこの時期に弓道部を休部して、寮も退寮した。

休部と退寮は別々の要因からなるものじゃなくて、根底にあるのは結局人間関係だと思う。

もちろん、実力不足も休部の原因の一つではあるけど。

部活が辛くなり始めたのは、周りがどんどん上達していく中、同じだけ練習している自分が全然上達しなかったから。

特に、新しく入ってきた新入生はもう射場で矢を放っているのに、1年先輩のはずの自分はまだ巻き藁の前で練習しなきゃいけないのは辛かった。

部活を一回も休んだことがないせいで余計に、それだけ時間をかけても下手な自分がすごく悔しかった。

でも、本当に部活が辛くなったのはやっぱり部活での人間関係のせいだと思う。

弓道部の同期は、実は1年の時の同部屋の3人で、最初は全員と仲が良かったと思う。

でもある時からなぜか、その中の一人とあまりうまくいかなくなってしまった。

彼に嫌われるだけならまだしも、彼は周囲の人間を使って僕に実害を加え始めたから、とても辛かった。

彼は弓道もうまかったし、我の強いタイプの人だったから、彼に嫌われることによって僕は部活の中で疎外感を感じるようになってしまった。

疎外感というか、実際は僕のほうから彼らを拒絶していたのかもしれないけど。

彼らについて言いたいことはいろいろあるけど、少なくとも、今ここに恨み辛みを書いたところで、なんの意味もないことは僕が一番わかってるし、僕もそうするつもりはない。

結局何が言いたいのかというと、こうやって他人とかかわるのが嫌になってしまった僕は、彼に関する全部から逃げてしまったということ。

これが正解だったのかは誰にもわからないけど、少なくとも僕は後悔はしていない。

ただ少なくとも、部活を辞めたことで数少ない友人だった彼らと距離を置くことになり僕は無事に一人になってしまったということは事実だ。

 

休部してから暫くは、やることもないから授業終わりに図書館で時間をつぶしていた。

読書していれば時間は無限につぶせたし、幸い高専の図書館には面白い本がいっぱいあったから、退屈には感じなかった。

でもある時から、部活をしていたはずのの時間をダラダラ過ごしている自分に危機感を感じて、部活動の時間帯の16:30~18:00は図書館で数学を勉強することにした。

結論だけ言うと、この時間で勉強したことはそれなりに役に立ったと思う。

 

つまりこれ以降、僕は数学のテストで100点以外をとったことがない。

 

このようにして、僕の楽しい高専生活は2年目にして終わりを迎えた。

卒業まであと3年もあったわけだから、その長さに絶望していたし、この時期は本当に無気力だったと思う。

 

今振り返ると、僕は高専2年目でたくさんのものを失くしたと思う。

それは数少ない友人だったり、或いは学校での楽しい時間とか、そういった目に見えるものだけではない。

つまり、人間が正しく形成される上で重要な、精神的な成長とかそういったものだ。

ただ、失った代わりに得たものも少なからずあったわけだし、人は何も失わずに何かを得ることは絶対にできないとも思った。

もしそんなことはないと主張する人がいても、その人は自分が失ったものに気づいていないだけだと思う。

2.3.高専3年

高専3年生は、特にイベントもなくあっという間に過ぎ去ってしまったと思う。

というのも、それは僕がひたすらTwitterに依存した時期だったからだ。

現実世界に友達がいないから、ひたすらネット上につながりを求めていたんだと思う。

Twitter上にはいろいろな人がいて、僕にもいい刺激になった。

今振り返れば、Twitterにハマっていた時間はとても楽しかったと思う。

でも、僕はもうこのTwitterでの人間関係はリセットしてしまったから、後には何も残っていない。

今では少し寂しく思っている。

 

3年生の思い出はあまりない。

強いて挙げるならバイトをしたこと。

この冬に、僕は人生で初めてバイトをした。

うちの高専では3年生からバイトが解禁されるし、有り余る時間をお金に変えようと思ったから。

バイト先は飲食チェーン店だった。

僕は主に調理を担当していたけど、接客をする機会もあってとても勉強になったし、何をするにしても結局はコミュニケーション能力が重要なんだと思った。

ここで経験したことで一番為になったのは、飲食店でクレームをつけるような大人にはなりたくないと思えたこと。

詳細を喋るつもりはない。でも、お客様は神様ではないと思うし、そもそも僕は神の存在を信じていないから、そういう例えは不適切だと思う。

結局、僕は冬休みのうちに働けるだけ働いて、12万円ほど稼いだ。

正月も、クリスマスもバイトしていたけど、どうせ何の予定もないし、今思えばいい経験になったと思う。

バイト代は半分は貯金して、半分はすぐに使った。

僕はずっと家の低スペックなパソコンを使っていたから、バイト代を使って新しいパソコンを購入することにした。

そして、無事中古のゲーミングPCを購入して、ずっとやりたかったSEKIROをプレイした。アクションゲームはやったことがなかったから、とても新鮮に感じたことを覚えている。僕はこれ以来フロム信者となってしまった。

 

この時期は時間が有り余っていたから、いろいろな本を読んだ。

この時期に読んだ本の中で特に記憶に残っているのは、村上春樹の『ノルウェイの森』。

この作品は僕の人生観みたいなものにかなり影響を与えた作品で、これを読んで以来、僕は少しブルーな気分で人生を送らざるを得なくなってしまった。

この作品は、孤独を感じている人とか、喪失を経験した人が読むべきではないと思う。

実際に、僕はこれを初めて読んだとき、キズキの抱える不安が痛いほどよくわかったし、僕も彼らと同じような道をたどる可能性もあった(ある)。

 

 

高専3年は、こんな感じで特にストレスを感じる出来事はなく過ぎていったと思う。

それでも実際は僕はこの時期からかなり後ろめたい趣味を持つようになったわけだから、少なからずストレスは感じていたのかもしれない。

だからとりあえず、この時期は僕の高専生活において平和な時期ではあったけど、人との関りを避けることによって得られるだけの、平穏な時間に過ぎなかったと思う。

 

2.4.高専4年

高専4年の最初のころは再び読書に熱中していたと思う。

特に熱中したのはミステリ小説で、アガサ・クリスティー綾辻行人円城塔京極夏彦森博嗣とか、そこら辺の有名な作家の作品を片っ端から読んだ。

この時期に読んだ本から影響を受けて、僕は一時期はミステリ作家になりたいと思っていた。

実際は文章力も足りないし、アイデアもないからすぐに挫折したけど。

 

高専4年は、僕が人生で一番進路に悩んでいた時期だった。

でも、それと同時にいろいろな幸運が重なった年でもあった。

何をもって幸運とするのかの基準はあいまいだけど、それらは少なくとも、僕にとっては全く予期していなかったことだった。

4年生の冬にもなると、僕はそろそろ自分の進路を決めなくてはならなかった。

両親は僕の進路について特に口出ししてこなかった。たぶん、僕に就職してほしかったからだと思う。

だけど僕は当時、まだ自分の進路にすごく迷っていて、僕個人としては、大学でもっと学びたいと思っていた。

ただ、そこには一つ大きな問題があって、うちの家庭の財力だと、とてもじゃないけど大学には行かせられないということ。

一人暮らしさせるお金はないし、ましてや学費すら家庭から捻出するのは厳しかった。

高専の学費は、市の補助で3年まで無料だったから何とかなったものの、4年からは普通に徴収されることになっていた。

そして、そんなお金が必要な時期でも、我が家の収入は中学時代から変わってなくて、父親の年収は非正規雇用の250万だし、母親のパートの収入も生活費に消えていた。

このとき僕は、やっぱりこの国は非正規労働者に厳しい国だと思ったし、そんな中で子供を育てる無謀さをしみじみと感じた。

日本の出生率が下がり続ける原因は、こういったところにあるんだと思った。

ここまでもなかなか厳しい人生だったけど、大学で学びたいという気持ちを抱えたまま就職しなけばならないのは本当に残念だったし、この進路について悩んでいた時期は人生の厳しさに打ちのめされていたと思う。

 

しかしこんな厳しい状況でも、捨てる神あれば拾う神ありというもので、この時期に僕の人生で最も幸運なことが起きた。

それは、僕が4年生に進級したタイミングで、日本学生支援機構の給付奨学金が始まったということ。

この制度は、国の大学無償化の政策の一環で作られたもので、貧困世帯に授業料免除と返済不要の給付奨学金をくれるというもの。

この制度を知ったときはとても嬉しかったし、諦めかけていた大学進学が十分手の届く範囲にあることに気づいて、僕は自分の幸運にすごく感謝した。

うちの家庭は住民税非課税世帯だったから、もちろんこの給付奨学金の対象で、すぐにこの奨学金の申請をすることに決めた。

そして僕は見事、奨学生に採択されることになった。

僕は授業料がすべて免除されるだけではなくて、さらに国から月数万の学習支援のためのお金までもらえるようになった。

つまり、僕は大学無償化の政策のおかげで、高専の学費は免除されたし、大学の入学金と授業料の心配をしなくてよくなったわけだ。

僕はそれまで、格差の大きい日本の社会が嫌いで、その原因を作り出した政治家のことも大嫌いだったけど、これをきっかけに少しは日本のことを好きになれたと思う。

 

この大学無償化は僕の視点から見ると、とてもラッキーな話だ。

でももしかしたら、しっかり学費を払っている家庭の人は、他人の学費が免除されるのを見て狡いと思うかもしれない。

確かに僕の学費が免除されて、給付奨学金をもらうということは、税金もろくに納めていない我が家が日本に、ダニのように寄生させてもらうことでもある。

でもこれには僕にも言い分があって、納税額が少ないのは親の責任だし、それはそもそも非正規雇用に厳しい社会の責任でもあるわけだから、むしろ貧困層の救済は国の義務なのかもしれない。

僕はそう思ってしまうけど、でも結局僕は国に寄生してるのと変わらないから、なるべく謙虚に生きていくつもりだ。

僕がこの経験を通して学んだことは、こうやって少しずつだけど、世界はいいほうに変わっていくのかもしれないということだ。

 

少し本題から離れてしまったから、話を戻そう。

僕はこんなふうに進路についていろいろ悩んだわけだけど、すべては僕の手の届かない範囲で解決してしまって、少し驚いてしまった。

でも、こうやって奇跡的に金銭的問題が徐々に解決されたことで、僕が本格的に大学で学びたいと思うようになったことは事実だ。

大学進学への最後の問題は両親の説得だった。

大学に行くためには、寮に入るとしても親の金銭的支援が必要だし、受験の時にも受験料やホテル代が必要だから。

親に進学の話をするときはかなり緊張した。

でも、話してみたら案外あっさり賛成されて、僕は驚いてしまった。

どうやら両親は、一応は大卒  (偏差値を調べたらBF~35.0と書いてあった)  だから、学ぶことの大切さを知っていたのかもしれない。

結局思い詰めていたのは僕だけだったみたいで、父親は僕たち兄弟が大学に行くことになっても大丈夫なように、副業として毎朝、朝刊の新聞配達をしていたらしい。

僕の家庭の今までの質素な生活も、学資保険に少しずつ積み立てるためだった。

つまり、奨学金次第で大学進学もできるようになるように、着々と準備をしてくれていたわけだ。

僕はこれを知ったとき両親にすごく感謝したし、今までお金を稼げない親のことを少なからず馬鹿にしてきたことを申し訳なく思った。

 

僕は、新聞配達で睡眠時間を削ってまで家族のために働く父のことを、今でもとても尊敬している。

それでも、この経験を通して僕の中に一つ新たな決心が生まれた。

それは、僕は絶対に家庭を持たないということ。

家庭を持つということは、背負わなくてはいけないものが増えて、人生の自由度が下がるということだ。

家庭を持つ以上、そこでどう振舞うかは個人の自由だ。でも親としての最低限の責任を果たさなくてはならないと思う。

現に僕は、父からかなり厳しく暴力によって躾けられたけど、そのことに対して全く不満はない。

多分、僕にもし子供ができたら暴力で躾けると思うし、うちの父親もそうやって育てられてきたんだと思う。

でも僕は父親と違って、自分の人生を犠牲にしてまで家族に尽くそうとは到底思えない。

つまり、僕みたいな身勝手な人間にはその最低限の責任すら果たせないと思う。

もしそうなった場合、生まれてくる子供にとってはただの悲劇だし、僕もそんな悲しい子供を生み出したくないから、絶対に家庭を持たないことを深く誓った。

 

また本筋から離れてしまったから、話題を戻す。

まあこんな感じで色々あったわけだけど、結局僕は大学進学を目指すことにした。

学費の問題が解決したとしても、学力が足りなければどこにも受からないから、これ以降は勉強に一層力を入れた。

この時点の志望校は特に決まってなかったけど、僕が合格できる大学の中で一番レベルの高いところに行こうと思っていた。

高専からの編入試験には模試がなくて、自分が全体の中でどこに位置しているのかを知る術がなかったから、とりあえず周りを気にせず一生懸命勉強した。

この時期Twitterでは、編入試験に向けて同世代の高専生からよくフォローされるようになった。

これは多分僕の勉強関連のtweetを見て、向こうのほうからいろいろ興味を持ってくれたんだと思う。

でもこの年の冬には、他人の勉強量が気になって純粋にtwitterを楽しめなくなったから、これ以降受験が終わるまではアカウントからログアウトしてしまった。

 

この年の初めには、全世界的に新型コロナウイルスが蔓延していて、学校もすべてオンライン授業になった。

友達のいない僕にとっては、学校に行けないことによるデメリットはなかったし、自分のペースで受けられる遠隔授業はとても楽だった。

僕はこの時期に編入試験の勉強を進めることができたから、むしろ遠隔授業になってくれてよかったと思う。

高専の4年はこんな感じで、進学を決心してからは主に受験勉強をしていたと思う。

ただ、周りに勉強のことを相談できる人もいないし、一人での受験勉強はとても不安だった。

 

2.5.高専5年

高専の5年生の前半は編入試験関連でとても忙しかった。

4月には受験する大学を決める必要があったから、とりあえず目標は東大にしておいた。

これは自分の能力を過大評価していたわけじゃなくて、目標は高いほうがいい結果が出ることを知っていたから。

結局、受験校は東大、東工大、阪大、東北大、電通大豊橋技科大の6校に絞った。

高校生がこれを見たら、こんなに沢山受けて狡いと思われそうだけど、高専生はそれまでにいろいろなものを犠牲にしてるから、まあ大目に見てほしい。

僕は結局合格発表の兼ね合いで東工大と東北大は結局受けなかったから、実際に受けたのは残りの4校だった。

 

春休みは人生で一番勉強した期間だったと思う。

勉強時間を記録するアプリを見返してみたら、3月だけで319h42min勉強していた。

勉強は時間じゃなくて質なのかもしれないけど、毎日10時間の勉強を続けられたのは、僕の中でも自信に繋がったと思う。

もしこれを見ている高専生がいたら、春休みくらいは一生懸命勉強することをお勧めする。

多分、この時期が人生で一番勉強のコストパフォーマンスがいい時だから。

 

そして高専5年の夏、ついに編入試験が始まった。

個々編入試験の出来についてはほかの記事にまとめてあるから、気になる人は見てみてほしい。

ここでは、それぞれの大学での思い出を振り返ろうと思う。

といっても、今の僕は受験からかなり時間がたってしまったわけだから、詳しいところまでは思い出せないかもしれない。

ただ、編入試験は僕の人生の中で初めての受験らしい受験だったから、思い出せる範囲で頑張って書いていこうと思う。

 

僕がまず初めに受験したのは、豊橋技科大だった。

豊橋での思い出は、正直あまりない。

気持ちとしては滑り止めの滑り止めだったけど、なぜか倍率が5倍もあって、少し不安に思ったまま試験に臨むことになった。

泊まった場所は豊橋駅周辺で一番安いビジネスホテルだった。

そこは、安いわりに清潔なホテルで、試験前日をとても快適に過ごせたと思う。

翌日、豊橋技科大には朝一番のバスで向かって、無事に試験を受けることができた。

編入試験は初めて受けたけど、問題は意外と簡単で特に緊張はしなかった。

テストが終わった時には、手ごたえが十分にあったから安心して帰ることができた。

 

次に受験したのは、電通大

僕は愛知に住んでいて、試験会場は東京だったから、新幹線で前日入りした。

新幹線に乗るのは実はこれが初めてで、年甲斐もなくとてもワクワクしてしまったことを覚えている。

東京で泊まった場所は、調布で一番安いビジネスホテルだった。

このホテルは東京にあるとは思えないほど安かったけど、実はとても残念なホテルだった。

まず第一に、エントランスが半地下になっていて薄暗い喫煙所みたいになっているところがよくない。

ホテルの受付でチェックインしたとき、周りの客のタバコが臭くてすごく困った。(受け付けは中国人の女性だった。)

でも、もっと困ったことは、部屋の構造。

喫煙可の部屋だから、部屋全体からお香みたいな臭いがするのはしょうがないとしても、部屋の天井に電気がなくて、デスクスタンドの小さな光源しかないことには、驚きを通り越して呆れてしまった。

暗いからといって窓を開けると、ほんの3mくらい向こう側に隣のビルの壁があって、日当たりは最悪。

おまけに隣のビルとの間には、大量の吸い殻が汚い雪のように落ちていて、日本にこんな汚いホテルがあること自体に驚いた。

結局、ホテルはひどい環境だったけど、編入試験自体はよくできたと思う。

残念だったことは、この大学には面接もあって、2日間をその暗くて汚いホテルで過ごさなきゃいけなくなってしまったことだけ。

ホテルの泊まりで疲れてしまって、帰りの新幹線ではクタクタだったことを覚えている。

 

電通大の次に受験したのは東大。

東大の編入試験には、1次試験と2次試験があって、それぞれ、1次が学力、2次が面接となっている。

1次試験に受からなかったら2次試験にも呼ばれないけど、2次試験の面接まで行くことができれば、よっぽど落ちることはないと思う。

僕はとりあえず1次試験の時のホテルだけを予約しておいた。

電通大の時の反省を生かして、次はなるべく清潔そうなホテルを選んだ。

東京には前日に新幹線で行くことになっていたけど、その日は連日の豪雨で新幹線が止まってしまい、そこまで行くのにとても大変だった記憶がある。

名古屋駅の新幹線乗り場で右往左往するのも嫌だったから、新幹線が運行再開するまで、家でおとなしくすることにした。

結局その日の午後には新幹線の運行が再開し、僕は東京へ向かった。

熱海のほうでは大規模な土砂崩れが起きていて、かなり徐行運転で東京に向かったことを覚えている。

東京に着いたとき、あたりは少し暗くなっていたけど、慣れない都会の電車に乗って何とか本郷まで行くことができた。

そして、正門のすぐ近くの弁当屋でチキン南蛮弁当を買って、そこから歩いて二分くらいの距離にあるホテルに泊まった。

ホテルはとても清潔で、僕も緊張せずによく眠れたと思う。

翌日の朝、僕はいつもより少し早くホテルをチェックアウトして、大学に向かった。

編入試験当日、東京は朝から霧のように細かい雨が降っていた。

もう7月だというのに、少し肌寒く感じたことをよく覚えている。

緊張したまま歩くこと数分で、僕は東大の正門に到着した。

僕が大学に足を踏み入れた時、構内は静寂に包まれていて、雨の中ひっそりと聳え立つ建物は神秘的な空気を纏っていたように感じられた。

それは、あるいは大学の歴史というか、重みによるものかもしれないけど、少なくとも僕にとっては今まで受けてきた大学とは全く別の種類の建物であるかのように感じられた。

 

東大の時だけ、こんなに無駄な比喩表現を使っているのは、それだけ僕の記憶に残っているからだ。

本当は僕の見たものを全部そのまま使えたいけど、僕の表現力には限界があるから、君のその豊かな想像力で足りない部分を最大限補ってくれるとうれしい。

ただ、大学構内に入ってからはいつも通り試験を受けただけだから、ここから先は簡潔に書こうと思う。

テストの内容は、以前まとめたものがあるからそれを見てほしい。

簡単にまとめると、テストが終わった時の率直な感想としては、合否は五分五分といったところだった。

不合格を確信するほど出来なかったわけでもないし、合格を確信するほど出来たわけでもない。

それでも、なんとなく自分が落ちた気はしなかった。

だから帰り際に記念に東大の写真を撮ってから帰ろうと思ったけど、またここに来られるような気がしたから、写真を撮らずにそのまま大学を後にした。

 

東大から1週間後、今度は大阪大学の基礎工学部の編入試験があった。

この時には既に東大の1次試験を受けていて、それなりに手ごたえを感じていたわけだから、僕にはあまりやる気はなかったのかもしれない。

それでも、万が一東大に落ちていた場合に困ってしまうから、一応こちらの大学も受験することにした。

新大阪までは、新幹線に乗っていった。

東海道新幹線を東京方面ではなく、大阪方面に乗っていくのは初めてで、少し緊張していたと思う。

この新幹線に乗って気づいたことは、名古屋と京都が意外に近いということだった。

新大阪駅からどうやって豊中に向かったかはあんまり覚えていないけど、確か梅田を経由していったことだけは覚えている。

梅田駅はすごい複雑な構造になっていて、方向音痴の僕は迷ってしまってとても困った。

日本に名古屋駅より複雑な駅があることを知らなかったし、複雑な駅を設計してしまう人は、たぶん有能ではないのだと思った。

僕は梅田駅には一つ嫌な思い出がある。

それは、僕の背負っているリュックのチャックがずっと開けっ放しになっていたこと。

多分これは新大阪から空いていたのだと思うけど、それまで誰も教えてくれなかった。

大阪に着いてからやけに視線を感じるような気がしたし、後ろから笑い声が聞こえた気もした。

それは僕に対してじゃなくて、僕の近くにいた、ずっと独りで喋っていた老人に対してだと思っていたけど、今思い返すと笑われていたのは僕だったと思う。

鞄の中身は無事で助かったけど、これ以来僕は大阪のことがあまり好きではないし、実際にもう二度と行くことはないと思う。

宿泊場所は、豊中にある安めのホテルを予約した。

そこはもともとラブホテルで、それを改築してビジネスホテルにした建物だった。

部屋はそれなりに清潔だった。(元ラブホテルにこの表現を使うのは妥当ではないのかもしれない)

それでいて、部屋がかなり広かったから僕はうれしく思った。

一つ残念だったのは、風呂が明らかにラブホテルのそれで、とてもじゃないけどお湯を貯める気にはなれなかったこと。

さらに言えば、ベッドもキングサイズで枕も4つあったから、一人で泊まるには広すぎるとは思った。

夜は道路を通る車の音がうるさくてぐっすりとは眠れなかったから、受験という視点で見ると、あまりいいホテルではなかったかもしれない。

そんな環境だったけど翌日の編入試験は、今までで一番できたと思う。

というのも、この年はそんなに難しい問題は出なかったし、東大受験者からしたら絶対に間違えちゃいけない問題構成だった。

テストが終わってから僕はホテルに帰ったけど、翌日の面接対策をする気にはとれもなれなかった。

面接が適当でも受かる気がしたし、実力を評価してくれない大学なら、通っても無駄だと思ったから。

結局2日目は、すこし気の抜けた状態で面接に挑むことになった。

といっても、ちゃんとスーツは着たけど。(過去には私服で挑んだ猛者もいるらしい)

 

さて、僕はこんな気の抜けた状態で面接に挑んだわけだけど、結果はどうなったのだろうか。

まあ勿体ぶらずに結論だけをいうと、この面接は人生で一番ひどいものになった。

それは半分くらい僕の知識不足のせいではあるんだけど、大学側もかなり厳しかったと思う。

詳しくは前回書いた記事を参考にしてほしいけど、簡潔に言うなら、とても圧迫面接だった。

しかも、口頭試問にうまく答えられなかったから僕はとても焦ってしまって、視界の隅が暗くなって景色がぐらぐら揺れるくらいにパニックになってしまった。

これは今までの人生で一番焦った瞬間だったと思うし、これが今後更新されないことを切に願っている。

面接が終わって大学を出た後は、僕は抜け殻のようになってしまって、しばらく呆然としていた。

前日のテストの手ごたえとか、そういったものが全部吹き飛ぶくらいショックだったし、面接後には不合格になった気しかしなかった。

そして、僕は大阪に最悪な思い出を残したまま意気消沈して地元に帰っていった。

 

大阪大学編入試験から1週間ほどで、電通大と東大の1次の合格発表あった。

その時僕は信号解析の授業中で、分布定数回路から伝送線路の方程式を導出している最中だった。

この微分方程式がなんの役に立つのかよくわからなかったし、単純すぎてつまらなく感じたことを覚えている。

そして合格発表の時間が来たとき、僕は教室の隅でスマホを弄りながら、最初に東大の結果を確認することにした。

電通大に関しては多分受かってると思ったし、東大の方の結果を早く知りたかったから。

合格発表のpdfを開いたとき、僕はすぐに自分の番号を見つけられなかった。

この時は少し焦ったけど、よく見ると一番端に自分の番号があることを確認出来て、それからとてもほっとしたことを覚えている。

普通に授業中だったし、勝手に騒ぐつもりもなかったから、結果は家族と指導教員に連絡するだけにしておいた。

そして、1次試験を突破したことに安心して、これ以降は2次試験用に面接対策をした。

一次試験を突破したことで東大に行く気持ちが一層強くなったし、これで僕はようやく阪大でのショックを少しは忘れることができたと思う。

 

東大の2次試験に向かう日の朝に、阪大の基礎工学部の合格発表があった。

結果は普通に合格していた。

結局、阪大はしっかりと実力で評価してくれる大学だということが分かったけど、面接でのトラウマはまだ確実に僕の中に残っているし、合格してもあまり行きたいとは思えなかった。

梅田駅での一件もあったし、僕は元来大阪とは合わないんだと思う。

 

東大の2次試験は、阪大とは打って変わって、とても楽しかった。

これはたぶん、1次試験を突破した時点でほぼ合格が決まっているから、向こうの態度も柔らかかったのだと思う。

こちらも詳細が気になる人は、前回書いた記事を見てほしい。

東大の2次試験が終わったとき、僕は正直合格を確信していた。

試験会場の工学部3号館を出たときの、7月の太陽の眩しい光を今でもはっきりと覚えている。

 

試験から1週間後、東大の二次試験の合格発表があった。

結果は無事に第一志望の計数工学科に合格だった。

そしてこの日、僕の受験は無事に終了した。

 

ここからは編入試験後の僕の生活について書こうと思う。

とはいえ、これで僕の高専生活における一番大きい出来事は終わってしまったわけだから、この後は僕の卒研の愚痴ぐらいしか書くことはないかもしれないけど、まあとりあえず書いてみようと思う。

編入試験が終わってから暫くして、僕はTwitterに復帰した。

Twitterには、東大の1次試験に合格していた時点で復帰してもよかったけど、結局いろいろ面倒だったから全てが終わった後に復帰することにした。

復帰後、ここでも色々な人に合格を祝ってもらって、とてもうれしかった。

でも結局、Twitterを続けるうちに他人の言動で悩むようになってしまって、僕はまたすぐにアカウントを消してしまった。

 

僕は、人間関係には減点方式を採用している。

だからもし、僕の許容できるラインを超えてしまう人がいたら、そういう時は自分からフェードアウトすることにしている。

見たくないものはなるべく見ないようにするのが人生をパッピーに生きるコツだと思っているから。

 

5年の後半は、だらだら卒研をやっていたと思う。

僕は適当に選んだ研究室で、上から降ってきた研究テーマをよくわからないまま研究した。

結局今になっても、自分が何の研究をしていたのかいまいちわかっていないし、正直そのテーマにはあまり興味がなかった。

まあでも僕はそれなりに言われたことはしっかりやっていたから、卒研も難なくこなすことができた。

それでも僕はこの年の終わり、かなり卒研に追われていたと思う。

それは僕にとってかなり大変で、ぼんやりと考えていた研究者という職業を断念させるには十分なものだった。

 

初詣を済ませ、後期の授業が始まったころ、地元で成人式があった。

地元といっても僕は20年間ずっと地元にいたから、地元以外を知らないけど。

成人式に出席するかはかなり迷った。

中学卒業後、連絡を取っていた中学時代の友人は一人しかいなかったし、高専で5年間隔離されていた人間が、いまさらその輪の中に入れる自信がなかったから。

でも、母親が張り切ってスーツを買ってくれた手前、出席しないとは到底言い出せなかった。

結局僕は行きたくない気持ちを抑えて、成人式に行くことにした。

 

結論から言うと、成人式はとても退屈だった。

仲のいい子たちはすでに仲間内で盛り上がっていって、少し遅れていった僕はここでも完全に一人だった。

多分彼らは中学卒業後も疎遠になることはなく、青春をエンジョイしていたのだと考えると少しうらやましく思った。

そしてそんな風に考えてしまう自分のことが、少しだけ悲しかった。

まあ多少は向こうから話しかけてくれる人もいたけど、正直中学時代のノリにはついていけなくて、僕は微妙な反応で返してしまった。

結局、僕はその退屈な式典が終わり次第、誰にも会わないようにひっそりと帰った。

この成人式で、僕は一つのある考えに至った。

それは、20年間過ごした自分の地元には、実際には自分の居場所がないということ。

高専に隔離されて彼らと疎遠になった時点で、僕は彼らの中では死んだ人間だった。

彼らにとって僕は興味はないだろうし、それはまた逆も成り立つと思う。

それでも結局、この成人式は僕の地元への未練を完全に断ち切ってくれたから、今思えばよかったのかもしれない。

 

2月に入ると、僕は卒論の提出に忙しかった。

提出の二週間前には卒論用のデータはすでに集まっていたけど、文字は一文字たりとも書き始めていなかった。

この二週間はテスト週間とも重なっていたから、本当に大変だった。

でも、徹夜の甲斐もあって提出日の前日にはなんとか卒論を完成させることができた。

完成した卒論の出来はかなり残念なもので、正直もう見たくもない。

それでも、卒論に取り組むことによって自分の研究者特性の無さに気づくことができたから、今思うと必要なことだったと思う。

 

こうして、激動の高専5年を終え、この文章を書いている現在へと至る。

 

3.6.現在

ようやく僕の高専でのすべてを振り返り、現在まで戻ってきた。

ここまでで既に19000字を超え、自分の卒論よりも文字数が多くなってしまった。

多分、無駄な文章もかなり多かったと思うけど、ここには僕の5年間を可能な限り正確に書いたつもりだ。

そしてまた、こうやって過去を振り返ることで、当初の目論見通り今の自分が構成された過程を客観的に観察することができたと思う。

 

この章の最後は、現在の僕について書く。

最近の僕は有り余る時間で、Elden ring とか、読書とかをしている。

読書に関しては、東京に行く前に積読を消化しなくてはならないから、毎日なるべく多くの時間を費やすようにしている。

最近は村上春樹の本をいろいろ読んだ。

特に印象的だったものは、『螢・納屋を焼く・その他の短編』の中に収録された、『めくらやなぎと眠る女』。

これは『ノルウェイの森』の後日譚のようなもので、こちらも同様に悲しい話ではあるものの、少しは希望を持てるような作品だった。

ほかにも、『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』とか鼠三部作も読んだ。

どの作品もとても面白くて、東京に行ったら早稲田の村上春樹ライブラリーに行ってみたくなった。

最近はこんな風に、読書に多くの時間を使うことで穏やかな時間を過ごしている。

 

3.おわりに

3.1.総括

まず最初に、ここまで僕のくだらない話に付き合ってくれた君に僕から最大限の感謝の意を伝えたい。

本当にありがとう。

 

君が僕の人生をどう捉えたのかは少し興味があるけど、あくまでそれは個々の解釈の問題だし、結局ここには事実があるからそれは大した問題じゃないのかもしれないとも思う。

 

それじゃあ、僕のくだらない話もそろそろ終わりにして、この5年間の総括をしたいと思う。

 

ここまでの僕の人生(主に高専生活だけど)を振り返ると、僕にとって不幸だった事も多かったように感じる。

それでも、少なからず幸運なこともあったし、現在の僕は人生がいい方向に向かっていることを感じることも多い。

高専での5年間は、退屈な時間でもあったけど、今思えばそのすべてに意味があった。

総括して、高専での5年間は最高とまではいかないまでも、それなりにいい5年間だったと思う。

 

 

3.2.今後について

最後の章では、僕の今後について話そうと思う。

とりあえず、僕は春から東京大学の2年生になるわけだけど、実際今の僕はとても不安に感じている。

東大のことはあまりよくわかっていないから適当なことは言えない。

だけど、僕の配属される計数工学科は、とても優秀な人たちが集まっていることは紛れもない事実だ。

はたして僕のような凡人がそんな環境に馴染めるのだろうか、今でも不安で仕方がない。

それでも、この環境に入ることを選んだのは僕自身だ。

だから大学に入ったら、僕はできる限り精一杯勉学に励もうと思っている。

 

最後に、今後の人生設計について話す。

 

簡単に言うと、現在の僕の将来設計はほぼ白紙に近い。

それでも、今の僕は現実を見て、研究者への興味も薄れているわけだから、実力が必要な博士課程に行くつもりはあまり無い。

つまり、僕はおそらく修士で就職することになると思う。

将来就きたい職業は、まだ決まっていない。

多分僕は一生独り身だし、贅沢が好きな人間でもないから、高収入を求めるつもりはない。

日本人の平均年収くらいで、ストレスのない仕事ができれば僕にとってベストだと思っている。

その代わり、できるだけ自分の時間を大切にしようと思っている。

つまり、自分にとって価値のあることをしたい。

たとえそれが他人から見て全く無価値に感じられるとしても、それを追求することが一番の精神的贅沢になると、僕は信じている。

その贅沢は、読書であったり映画であったり、ゲームであったり執筆であったりする。

そんな贅沢な生き方をしたい。

それを、僕の20歳からの人生の一番の目標にするつもりだ。

 

 

そろそろ書くこともなくなってきたから、僕の自分語りもここで終わりとする。

書き始めたときは深夜だったのに、気が付けば周りはもう明るくなってきてしまった。

卒業式まであと5時間しかないから、軽く仮眠をとってから卒業式に挑もうと思う。

最後まで読んでくれてありがとう。

僕の高専での5年間の締めとして、そして今後の自分への期待を込めて、この記事を終えるとする。